「はい。どなたですか?」
「マリア・タチバナです」
「え!?」
さくらは慌てて玄関の戸を開けた。
「マリアさん! お久しぶりです!」
突然の訪問だ。
「さあ、立ち話もなんですからどうぞ」
さくらが住んでいるのは、呉軍港の近くの借家だ。もちろん、大神の給料であれば、家を購入することも可能だが、仕事柄転勤が多いために借家で済ませている。
「今、お茶を入れますね」
「いいのよ、そんなに気を使わなくて」
「だって、久しぶりじゃないですか」
お茶菓子まで出てきた。
米軍に海上交通路をおびかされているため、物価は高騰している。まだ物資不足は本格化していないが、社会不安を抑えるために配給制の導入が検討されているほどだ。
甘味などの嗜好品は真っ先に削られているところだが、さすがは高級将官の家である。
「帝劇はどうですか?」
「そうね。表面上は変わりなく公演を続けているわ」
初代花組メンバーが次々と帝劇を去る中で、未婚の母となったマリアは帝劇のオブザーバーとしてとどまっていた。
「陸軍や馬鹿なマスコミからの圧力はあるけどね」
「圧力……ですか?」
「そうよ。この非常時にチャラチャラと芝居なぞするな! ってね」
「そんな!」
さくらも憤慨する。
年齢を重ねてもこうして素直に感情を出すところはかわらない。
「でも、かえでさん――藤枝司令代理は、非常時だからこそ、人々を励まし勇気づける帝劇が必要なんだって言い返したそうよ」
開戦により帝撃内部にいた軍人出身者はほとんど全て軍に復帰してしまった。留守を預かる形になったかえでの苦労も並大抵のものではないだろうが、毅然とした態度を崩さないのはさすがである。
「さすがですね。でも、肝心の帝撃としての活動に支障はないんですか?」
「そうね。支障がないといったら嘘になるわ。特に後方支援部隊の人的資源が不足しているのが、かなりの負担になっているわね。でも、新任の花組隊長・神山少尉もよくやってくれているし、さくらちゃんも頑張っているわ」
自分と同じ名前があげられたことに、さくらが複雑そうな表情を浮かべた。
現・花組隊員の天宮さくらのことだとはわかっているが、どうにも慣れない。
「天宮さんは、かなりさくらのことを慕って真似ているから、時々、見間違いそうになるわよ。まあ、時折、失敗をするところも、最初のころのさくらを見ているような気になるけど、アナスタシアさんの指導もあって実力はつけてきているわ」
だが、さくらは不安げな表情を変えない。
「違うんです、マリアさん。私が心配しているのは、神山少尉のことなんです」
「神山くん?」
「ええ。天宮さん、よく私に手紙をくれるんですが……花組の中で、神山少尉の人気があがってきているみたいで。今はまだ、はっきりとした形や行動になっていないかもしれないけど、これは……」
マリアは苦笑した。
「そうね。神山少尉は、一見、頼りなくて優柔不断だけども、素質は折り紙つきよ。もう少し経験を積めば化けるわ。花組にもよくリーダシップを発揮しているし……」
「やっぱり。一郎さんといい、新次郎くんといい、華撃團の隊長は色男にするのが条件なのかしら。花組は空中分解しやしなかしら。ああ、今になって、米田支配人やあやめさん、かえでさんの気持ちがよくわかるわ……」
いくら触媒としての力があるとはいえ、女ばかりの部隊の隊長を男性に任せるということを決断した帝撃首脳陣の偉大さをつくづくかみ締める。
「私達もあまり人のことはいえないけど……」
マリアも苦笑するしかない。
一方、さくらのほうは更に話をすすめている。
「考えてみれば、お母様もすごかったわ」
初対面の大神にいきなり一族以外は立入禁止の真宮寺家の墓を見せた、つまりこの男が真宮寺家の一族となることを了承したのだから。って、大分話がとんでる。
「さくら。あなたも今の花組のことをとやかくは言えないでしょう。自分のこと考えてみなさい」
「あら。だって、一郎さんは、ちょっと女の人に弱いけど、それを除けば完璧な男の人ですもの。花組隊長だったからではなく、大神一郎だっらから愛したんです」
「はいはい……」
ここまでくるとマリアも呆れるより他ない。
「その割には隊ちょ……いえ、大神提督の心配はしないのね」
「一郎さんは大丈夫ですよ。一郎さんはいつだって私たちを護るために戦ってきたじゃないですか。傷つくことはあっても、最後は戻ってきたじゃないですか。それに……」
さくらの頬が赤く染まる。
「……それに、私の心はいつも一郎さんと一緒にあるんですもん……きゃっ!」
自分で言いながら恥ずかしくなったさくらは顔を覆った。
勝手にやってくれ、ともいいたくなるが、しかし、それだけ深い愛と信頼が二人の間にあるということである。
それを理解したマリアの胸が痛んだ。
「ところでマリアさん。何か用事があって来たんじゃないですか?」
恥ずかしさから、話題をそらそうというのか、さくらが尋ねた。
「いえ。近くに来たものだから寄っただけだわ。そろそろ時間もあるし、いかなくては」
マリアは立ち上がる。
「え、もっとゆっくりしていってくださいよ」
「そうしたいのは山々だけど、帝撃の仕事が待っているのよ。戦争が終わったら、ゆっくり遊びにくるわ」
「是非、そうして下さい!」
さくらは玄関口でも何度も手をふった。
(どうやら杞憂だったようね)
待たせてあった蒸気自動車のシートに身を沈めたマリアは、そっと呟いた。
あの場では言わなかったが、本当の目的は、さくらが落ち込んでいたら励まそうと思っていたのだ。そのためだけに、呉までやってきたのである。
わざわざそこまでするのには、理由が二つあった。一つは、友人だから。もう一つは、大神一郎の妻だから……。
さくらが悲しめば、大神も悲しむだろう。さくらが苦しめば、大神もまた苦しむだろう。
マリアは大神の笑顔を見ていたかった。例えそれが己に向けられていなくても。例えそれが己というものの犠牲の上に成り立つものであっても。
そう、大神一郎は、マリアが心に決めた生涯ただ一人の男性なのだから。
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