第五話「血戦」(その8)

「よーし。そのまま匍匐前進だ」

 米田鷹将中尉は自らの中隊の先頭にたち、じりじりと前進していた。
 硫黄島攻略が終わったと思ったら、またも転属。
 今度は山下第二五軍第5師団の所属だ。しかも、今度は“見込まれて”の引き抜きである。
 先の硫黄島攻略作戦で米田が所属していた一木支隊は唯一の強襲揚陸経験部隊となった。陸軍にとっての“本番”であるフィリピン作戦を成功させるために、この貴重な経験を生かすべく、同支隊から下級士官・下士官を大量に転属させたのだ。

(畜生、俺は運がねぇぜ)

 当然の思いだ。
 だが、米田一基がそれを聞いていたら、一喝したところだろう。

「馬鹿やろう。そういうのは戦運があるっていうんでぇ」

 と。
 もっとも、そんな内心はおくびにも出さず、米田は部隊を率いている。

「あと、10秒で支援が止むぞ。準備しろ」

 敵の陣地に向けて味方の重砲が支援している。
 こうして堂々と支援できるもの、制空権をもっているゆえであるし、相手が十分に反撃できないのも、制空権をもっているがゆえだ。
 なにせ、重砲というものは重い。一度、展開してしまうと容易に場所を移動することはできない。それでいて、その砲煙は派手に巻き上がり、遠方からでも砲撃場所を確認することができてしまう。
 制空権を握っている側は、重砲陣地の位置を把握でき次第、空襲部隊を差し向けてそれを撃破してしまえばいいのだ。

「3…2…1…砲撃停止時間」

 秒数を数えていた小隊軍曹の声と同時に砲撃は止まる。
 停止時間の直前、最後に発射した砲弾が、数秒の後に着弾した。
 それを確認した米田は、日本刀を抜き、立ち上がる。

「突撃ぃっ!」

 米田の号令。
 隣接する部隊でも同じような声があがり、ラッパ手は突撃喇叭を吹く。
 喇叭による命令伝達は、伝統的な日本陸軍の小部隊統率方法だ。
 一見、旧態然とも見えるが、個人用無線機などの整備は(技術的にも予算的にも)不可能であり、また、特に突撃という“隣の人間が倒れても、それを無視して前に進む”という“熱狂”を要求される場合は、喇叭のような音は士気を奮い立たせる重要なファクターにもなるのだ。
 実際、軍隊に“軍楽隊”という演奏部隊がある理由の一つはこれである。
 現在でこそ、儀礼・式典用として位置づけられているが、19世紀前半ごろまでは、最前線の戦闘に参加していた。例えば、ナポレオン戦争時代には対騎兵用の陣形として方陣と呼ばれる歩兵が平地で四角形に隊列を組み、向かってくる騎兵を迎撃するという陣形があったが、これは一人でも恐怖にかられて逃げ出すと、そこから陣形全体が崩れてしまうものである。騎馬で突撃してくる相手がこわくないわけはないのだが、その方陣で囲まれた真ん中には、軍楽隊が陣取り、士気を鼓舞する演奏をしたのだ。
 ともあれ、その喇叭の音とともに、日本軍の突撃ははじまった。

「おらぁ。田中小隊に負けるな!」

 隣接する小隊の名前をあげて部下の士気を煽る米田は、自ら先頭に立っている。
 しきりに銃火を浴びせてくる米軍の前に、何人かがのけぞるように、あるいは、うつ伏せに崩れ落ちていく。
 一方、米田達は、後方からの機関銃の援護はあるが、自らはほとんど銃を撃たない。
 彼らが装備する九九式小銃はボルトアクションライフルである。これは、一発うったら、ボルトを引いて次弾を装填するという作業が必要になり、米軍が装備しているM1ガーランドのように引き金さえ引けば次々と射撃できる半自動小銃でも、米軍や独軍が前線下士官に配備しているサブマシンガンのような、引き金を引きっぱなしで連射できるような全自動銃でもない。数十キロの装備を背負ったまま全力疾走していては、射撃をすることがままならないのだ。
 ボルトを引くような作業をする暇があったら、全力で駆け抜けたほうがよほど損害も少なくてすむのである。

「怯むなぁっ!!」

 米田は自ら転がりこむようにして米軍の濠に入り混む。
 その態勢を崩したところに、米兵が襲いかかろうとする。

「小隊長!」

 直後、米田に続いてきた兵士たちが小銃を突き出してそれを阻む。
 銃剣が先につけられた小銃は白兵戦の距離では“槍”だ。

「おう!」

 それで得られた僅かな時間で米田は素早く立ち上がる。
 兵達も小銃を巧みに白兵戦武器として使って米兵を打ち倒してしていく。
 体格では米兵に劣る日本兵だったが、白兵戦では圧倒的に有利なのである。
 この時も、優位に戦いを進め、壕から米兵を駆逐していった。

「よーし。各分隊、点呼をとれ。中隊長に連絡を……」

 敵の姿が見えなくなったと見た米田は、戦闘で散開してしまった自らの小隊を掌握しなおそうとした。
 しかし、その時。

「うわっ!」

 爆発音と巻き上がる土煙。そして、弾かれた石礫が米田達を襲う。

「敵戦車!」

 M4シャーマンだ。
 それが数両、米田達にめがげて砲撃してきている。

「砲兵支援か、航空支援を要請するんだ。それまで耐えるぞ」

 もちろん、米田の直接の上官にあたる第3中隊長・堂前達彦大尉も言われるまでもなく連絡を入れている。
 だが、返事は芳しくない。

「中隊長より伝令! 砲兵、航空とも支援なし! 各小隊は現状を維持すべく最大限の努力を行えと!」
「米田小隊、了解」

 とは答えてみたものの。

(なーんで、俺達には支援こねぇんだよ!)

 内心では毒づく。
 この時、戦線各所で米軍の反撃があり、砲兵や航空支援は駒が足りなくなってしまっていたのだ。

「頭低くしてろ。生き埋めになったやつは掘り出してやるんだぞ!」

 米田が部下に命じたのは、ひたすらに耐えることだった。
 この時期、未だに有効な歩兵用の対戦車兵器は開発されていない。
 もちろん、対戦車砲はある。が、シャーマン戦車に対しては役にたたない。最も分厚い前面装甲はおろか、側面や背面装甲ですら撃ち抜けないような代物だ。
 日本歩兵は、戦車に白兵突撃するより手がないのである。
 それを成功させるためには、ギリギリまで引き寄せて、一気に突撃するしか手はない。 しかし、米軍もそれは重々承知だ。
 戦車は距離を詰めず、砲撃に徹している。代わりに、一度は敗走した歩兵達が再集結して、戦車の援護の下、前進してきていた。

(っつたく。よくやるぜ、アメ公も)

 随伴歩兵がいるとなると、白兵突撃の困難さは増すことになる。突撃を歩兵に阻まれてしまうからだ。

「擲弾筒! 兵隊を狙え!」

 後に擲弾発射器(グレネードランチャー)の元祖といわれることになるこの兵器は、手榴弾を射出する小型の兵器で、歩兵が通常装備として傾向できる。しかも、手で投擲するよりよほど遠方にまで手榴弾を到達させられるため、ミニ迫撃砲として重宝されている。
 ちなみに、地面に立てて使うその砲床の部分が弧になっていて、丁度、足の上に乗せられるかのようになっていることから、米軍はこの擲弾筒のことを「ニーモーター(膝撃ち迫撃砲)」と呼んでいる。この呼称を真に受けて、足の上に乗っけて試射して骨折する事故が何度かおきていた。
 もちろん、この時の米田小隊は正しくこれを用いている。
 擲弾(手榴弾)が敵兵の間におち、何人かを倒す。
 この米田小隊の攻撃を端緒として、各部隊も同じように攻撃し始めた。
 一度は敗退している敵歩兵の士気はそう高くない。
 これでかなり行き足が鈍る。
 だが、戦車には無力だ。

「のわぁっ!」

 米田は比較的近距離に着弾した砲撃でしこたまに土をかぶった。

「ペッ! フィリピンの土はまずい!」

 うまい土があるのだろうかという疑問はともかく。
 こと、対歩兵に関しては、手榴弾や砲弾は直撃しなくとも、その爆発の破片でかなり広範囲の兵を殺傷できる。今の米田の距離はそのギリギリであったのだ。

(まだ運があるな)

 米田も自ら拳銃を握る。
 もちろん、その手にする南部十四年式拳銃──既に九四式拳銃が新たな制式拳銃となっていたが、士官の多くは信頼性の高いこの銃を好み、高級将官は自費で欧米製拳銃を購入することが多かった──では、敵兵に有効な射撃となるわけもない。
 それでも、その姿で士気を鼓舞することはできる。
 このあたり、刀との使い分けがうまい。

「退くなよ。ここが踏ん張り所だ」

 といいながらも、自分は周囲に神経を張り巡らせている。
 中隊長が撤退を命令すれば、すぐにできるだけ安全に逃げられるやり方を常に考えているのだ。
 想定されるあらゆる戦術を頭に入れながら戦っているからこそ、命令変更や対応の変更にも咄嗟に対応できるのである。
 しかし、この後におこったことは、さすがに彼も想定外だった。

「あーん!?」

 無限軌道の音が聞こえてきた。
 既に実戦経験が長くなってきている米田には、その無限軌道とエンジン音でどの戦車だかがわかった。

「んなもんじゃ役にたたねーぞ!」

 日本の主力戦車である九七式中戦車に違いない。
 先に日本戦車が貧弱でM4シャーマンに対抗できないとしたが、この戦車は正にその代表格だ。
 主砲は57mm短砲身加農砲で、装甲も37mm対戦車砲の近距離からの射撃を想定したものにすぎない。つまるところ、歩兵直脇(歩兵随伴・直接支援)でトーチカや機関銃巣を攻撃するための戦車だ。
 対して、M4シャーマン戦車は75mm戦車砲はもっている。
 九七式中戦車の装甲などボール紙同然。およそ相手にならない。
 米田は落胆しつつ音のする方角に目をこらす。

「……なんでぇ、ありゃ?」

 それは彼の予想したのと全くことなる得体のしれないものだった。

「このまま前進させて下さい」

 その“異形の兵器”に乗り込んでいるのは、琢也だった。

「相変らず、蒸気圧があがらないな」

 戦闘を直前にして、もう一度、出力をあげることを試みたが、やはり無理だった。
 彼の甲虎は、大きなダメージをうけてはいなかったのだが、機関の調子が悪く、出力が得られなくなっている。しかし、動かす場所を限れば、まだ稼働することはでき、そこで考え出されたのがこの苦肉の策だ。
 すなわち、砲塔が破壊された九七式戦車の車体に鉄板で蓋をした上に留め金をつくり、そこに甲虎を座らせるような形で固定したのである。
 後に、この改造写真を見た紅蘭が「何や。ウチの神武みたいやな」と言うような姿であった。

「停止っ」

 車体の操縦士と有線で結ばれたマイクに指示を出す。
 そして、30mm対戦車ライフルをシャーマンに向けた。

「いくぜ!」

 これも車体に設置された支持架にのせられているため、照準がつけやすい。
 狙い過たず、シャーマンに初弾から命中。煙を上げさせた。
 しかし、相手の戦車は一両だけではない。
 残りの戦車は、この“対戦車兵器”に、一斉に砲塔を向けてくる。
 琢也も操縦士に移動を命じて、照準をずらしにかかった。
 焦っているのか、最初の数初は外れていく。
 だが、いつまでも無事というわけにはいかない。

「!!」

 直撃だ。
 周囲の歩兵──米田達も息を呑む。
 甲虎の装甲は戦車よりずっと薄い。直撃をうけてはひとたまりもない。

「い、いまのはヤバかった!!」

 だが、琢也は無事だった。
 直撃したのは甲虎がもっていた“盾”──撃破したM4シャーマンの正面装甲を切り取り、それに甲虎が持てるように握手を追加したものにだったのだ。
 基本的に、戦車は、自己のもつ主砲と同等の主砲に対する防御をほどごしている。従って、シャーマンの装甲は、シャーマンの主砲に対する防御力をもっているという理屈だ。もちろん、実際にはそう単純ではないが、とにかく、この場は、その装甲が耐えた。

「お返ししなきゃな」

 琢也が反撃する。
 さすがに百発百中とはいかないが、人力で次発装填しなくてはならない戦車砲に比べて、半自動小銃型の甲虎の対戦車ライフルはずっと発射速度が高い。
 それを利して、もう一両、シャーマンを撃破する。
 しかも、これは弾薬を直撃したららしく、大爆発を起こした。

「お、好機到来!」

 それを見た米田は部下に全力攻撃を命じた。
 壕内からではあるが、とにかく全火力を動員する。

「米田小隊長、攻撃を強化せよと!」
「遅いぜ! もうやってるよ」

 中隊長からの伝令に笑いすら浮かべて返す。
 だが、この命令で周囲の小隊からも攻撃が激しくなった。
 一度、敗走しながら、戦車を見て戻ってきた敵兵だから、そう士気が高いわけでもなかった。
 そこに、士気を立て直しの柱石であった戦車がたちまちに二両もやられ、しかも、攻撃が激しくなる。
 再び士気が崩壊するのは、当然の帰結といえた。

「逃げ出したぞ! 休まず撃て!」

 米歩兵は、またも敗走していく。
 こうなると、戦車だけが孤立してしまうのも危険。
 残存戦車も後退していった。

「おめーら、追いかけたりするなよ。これで十分なんだからな」

 部下にそう厳命すると、米田はどっかりと地面に座り込んだ。

(かあっ。危ねぇ戦闘だぜ。こんなのばかりだな)

 バターン半島という狭いエリアに戦闘の主軸がうつっている。
 日本軍はそれまで、ジャングルを踏破して迂回、敵後方に浸透する戦術を多用していた。これは、ジャングルなど踏破できるものではないと思い込んでいた米軍に対して極めて有効な戦術であった。
 しかし、狭いエリアに入ってきて、そうした戦術機動をする余地がなくなってきている上、米軍自体もその戦術に慣れてきている。
 こうなると、正面から敵陣地にあたるしかなくなり、損害も大きく時間もかかるようになってきていた。
 となれば、その時間の間に、米軍は陣地を強化できる。
 従って、また、損害も時間もかかる……
 日本軍にとっての悪循環が生起していた。
 それでも、制空権を握り、航空支援を受けれることで、何とか前進を続けることができている。
 もちろん、陸上部隊も死力を振り絞っていた。
 甲虎隊である独立特車第一〇六大隊も、既にまとまった部隊活動をするだけの機体を維持できておらず、危急の戦線の緊急増援に単機で投入されるようになっている。
 琢也が、半身不随の甲虎で出撃したのも、少しでも戦力をという努力によるものだ。

「よーし。少しゃぁ、気合抜いていいぞ」

 中隊からの攻撃中止命令に従って、米田は部下に命令した。
 彼自身も(さすがに最前線で酒が飲めないので)タバコを口にする。

「ふ~っ」

 煙を吐きながら、しかし、米田は緊張をといていなかった。
 このパターン半島の突端には、コレヒドール要塞がある。
 ただの陣地でもこの苦戦だというのに、実際に兵力が集結した要塞を相手にするとなったら、どんな戦いになってしまうのだろうか。

「叔父貴に旅順の話でも聞いときゃよかったかな」

 日本が経験した最大の要塞戦、旅順のために日本が滅びるとまでいわれた、日露戦争中の旅順要塞攻略戦。米田一基は直接、そこに参加していたわけではないが、日露戦争で陸軍きっての戦略家という名をあげた一基からならばいろいろな含蓄を聞けたであろう。
 しかし、彼はもういない。
 直接、日露戦争に従軍した将官達も、今の帝國陸軍には残っていない。
 第一、その経験がそのまま今の状況にあてはまるわけではなかった。
 当時は航空機も戦車もなかったのだから。
 それでも、旅順の話を参考にしたいと思うほど、米田は今の戦況を厳しく感じていた。

「これで増援でも送りこまれたら、こっちは全滅しちまうな。頼むぜ、大神おじさん!」

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