朝。
さくらは一人身支度をしていた。
いつもの着衣。いつもの髪結い。でも今日はちょっとだけ冒険してみよう。
まだ一度もつかったことない紅を、そっと口にさす。
「大神さんは気づいてくれるかしら?」
そんな独り言を呟きながら、さくらは身支度を終えた。
大神もすっかり傷が癒えて、元気になっている。
今日は、あの戦いが終わってから初めての休演日。
さくらは、大神をデートに誘うつもりなのだ。
「これでよし」
姿見で入念に点検してから、さくらは部屋の扉を開けた。
「!!」
だが、全く同じタイミングで、別の扉も開いた。そこから姿を見せたのはすみれである。
「さくらさん。どちらへ?」
「いえ、別に」
さくらとすみれは歩き出した。その方向は一緒。
次第に早足となった二人は、すぐに駆け出した。
そして、互いの身体を押し合うようにして大神の部屋にたどり着くと、止まることなく一気に部屋へと飛び込む。
「大神 | さん | ! | わたし | と | お買い物しませんか | !」 |
中尉 | わたくし | 買い物いたしませんか |
が、そこにはだれもいなかった。
「あら?」
その時、地下での朝練を終えたカンナが偶然に通りがかった。
「よう。二人とも何してんだい?」
さくらとすみれが同時に振り向く。その顔には殺気すらこもっていた。
「ど、ど、どうしたんだよ?」
さしものカンナも二三歩、後ずさりするほどだ。
「カンナさん。大神さんがどこにいかれたか、ご存知ですか?」
「隠し立てすると、ただじゃおきませんわよ!」
二人とも静かな声だが、逆にそれが恐い。すみれにすら絡むことなく、カンナは素直に答えることにした。
「隊長なら、マリアと一緒にでかけたよ。もうかなり前だな」
この言葉にすみれが激昂する。
「なんですって! カンナさん。あなたはそれを黙っていかせたのですか!?」
「あんだとぉ!? んなこといったってしょうがねぇだろうが!」
「カンナさん。男と女のことに縁のないあなたにはわからないかもしれませんが、マリアさんの魂胆がおわかりにならないの?」
ひどい言い草だ。
「そりゃぁよ。俺だって……。でもよ、結局は隊長が決めることじゃねぁか。口出ししてどーこーっってもんじゃないだろうが!」
「それにしたって! ねぇ、さくらさん」
「え!? あ、ええ……」
いきなり水を向けられて、さくらがとまどう。
「なんですの? 人の話を聞いていなかったんですの? まったく注意力散漫ですわね!」
実際、さくらは話を聞いているどころではなかった。
マリアは自分よりも魅力的な、大人の女性だ。
旅にでようとした自分を引き止めてくれた大神の心は信じている。
だが、世の中は時間とともにうつろうもの。人とて例外ではない。
もし、大神がマリアを……
その不安が、さくらを悩ましていたのだった。
その日の昼さがり。
マリアと大神は横浜のカフェで談笑していた。
「今日は朝から、付き合っていただいてありがとうございました」
マリアが大神を連れだした口実は、「買い物につきあって欲しい」というものだったが、それがデートであることは言うまでもない。
「いや。大したことじゃないよ。俺もたまには遠出して、気分転換したかったしね」
大神はコーヒーを一口すすった。
「なかなかおいしいね。マリアがこんな店を知っていたとは、驚きだよ」
「そうですか? ここは私の知り合いの店なんです」
「へえ。意外だなぁ」
日本で、マリアに帝撃以外の知人がいるとは。
だが、大神は、既にそれ以上の驚きがある。
「まあ、マリアの服ほどではないけどね」
彼女のいでたちは、女の子らしいドレスだ。秋物だから、そう薄手ではないが、それでもマリアのボディラインがよくわかる。どことなく、あの「町娘」の衣装にも似ている気もした。
「やはり、私には似合わなかったですか、こんな服は?」
不安気なマリアの返事を、大神は慌てて打ち消した。
「そんなことはないよ! よく似合っているよ!」
実際、すれちがう人が皆、振り返るほどだった。帝劇花組のスタア、マリア・タチバナだとばれて、群集に取り囲まれそうになったことも一度や二度ではない。
「それに、そういう姿を、俺に見せてくれたことが嬉しいよ」
「そんな、隊長……」
マリアは顔を赤らめてはにかむ。
それは、他の者には決して見せない、マリアの「女」としての一面だった。
「しまったな。とっぷり日が暮れてしまった」
カフェを出た大神は、空を見上げて呟いた。
門限まで時間はあるとはいえ、秋の日はつるべおとし。もう少し、早く帰るつもりであったのだが。
「マリア、少し急ごうか」
「はい、隊長」
早足で駆け出そうとした、その時だ。
「あ!」
慣れないヒールを履いていたためだろう、マリアが足を滑らせてよろめいた。
それを、慌てて大神が助けようとする。
結果として、大神はマリアを抱き止める形となった。
「だ、大丈夫か!?」
マリアが胸の中にいる動揺を押し隠すように、大神が言う。
だが、マリアの返事がない。
「マリア?」
「……」
「マリア?」
「……隊長」
ようやく返事がある。
「隊長、背中に……」
いわれて大神は、マリアの背中に手を回したままなのに気づいた。
「ご、ごめん!」
慌てて手をのけようとする。
だが、案に相違して、マリアはそれを押しとどめた。
「隊長。そのまま、私を……私を、抱きしめていて下さい」
「マリア!?」
「お願いです、隊長。私は隊長を……」
マリアが言い淀む。
しかし、大神は、その先に続く筈の言葉を知っていた。
「ごめん。マリア。俺は……」
「わかっています。さくらですね」
マリアとて、それくらいは感づいている。
「隊長に、さくらでなく、私を見てくれとは言いません……いや、言えません。でも、今だけ、今だけは、私を……」
マリアは、伏せていた顔を上げた。その碧い瞳からは、涙が流れている。
「……マリア……」
大神はマリアを強く強く抱きしめた。
その腕の中にあるのは、男役ばかりやっているとは信じられないほど、柔らかで華奢な身体。
やがて、お互いのぬくもりが肌を通して伝わりあう。
「ああ、一郎さん……」
「門限ギリギリだったな」
大神は、帝劇の二階に上りながらそう言った。
「そうですね」
マリアもそれに応えるが、二人の会話はどことなくぎこちない。
以後は押し黙ったまま、マリアの部屋の前へまでやってくる。
「マリア……」
扉を開け、部屋へと入ろうとするのを、大神は呼び止めた。
彼女は振り向き、大神を見つめる。
「一郎さん。ありがとう。私、今日の思い出だけで、一生を生きていけます」
「……マリア……」
そして、彼女は、普段のマリア・タチバナにかえる。
「今日は、一日、お疲れ様でした。おやすみなさい、隊長」
「あ、ああ、お休み」
扉が閉まる。
大神は、放心したようにその扉を眺めていた。
やがて、思い出したように自分の部屋へ帰ることとし、身体をひねった……
「うわわわわわわわわぁ!」
その瞬間、大神は、3メートルほど後ずさりした。
なぜなら、彼の視界に飛び込んできたのは、普段と表情を一変させたさくらであったからだ。
「さ、さ、さ、さ、さ、さ、さ、さ、さくらくん! 一体、いつからそこに!?」
「あら。いつからだって、いいじゃないですか。それとも、なにかまずいことでもあるんですか?」
恐怖のやきもち攻撃だ。
「い、いや、別になにもないよ」
「ふーん。そうですか。ま、花組の隊長と副隊長の仲が良いのは結構なことだと思いますよ。一郎さん」
大神の背中にべっとりと冷や汗がにじむ。
彼には何ら有効な反論がないのだ。
「で。米田大将からの伝言です。明日の0830(8時30分)に地下作戦室に集合です。じゃあ、確かに伝えましたからね」
それだけ言い終えると、さくらは去っていく。
残された大神は気力を使い果たして、その場に崩れ込むのであった。
「ああ、私ってやな女だな……」
自室に戻ったさくらは、袴姿のまま、ベッドに倒れ込んで呟いた。
「別に私は大神さんにとって、何だというわけじゃないんだもの。大神さんがどうしようと、どうこういえるもんじゃないじゃない」
口に出して、そう言ってみたものの、心は納得していない。
自分の独占欲の強さに半ばあきれる。
「あんなこと言うつもりじゃなかったのに……」
様々な人間模様を飲み込みながら、帝劇の夜はふけていく。